虐待を受けた人にとっての『自分らしさ』

虐待を受けた人にとっての『自分らしさ』
体験談

こんにちは。STOP!ABUSE:管理人の秋好玲那です。

『自分らしさ』って、何なんでしょう。なんだか漠然としていて、得体のしれないものですよね。

支援や啓蒙活動を通して、多くの方々とご縁をいただきましたが、数えきれないほどの人たちが、

  • 自分探し
  • 自分らしさとは何か

といった言葉を口にしていました。きっと、それだけ多くの人が、抑圧されて育ってきた結果なんだろうと思います。

ところが、私自身は『自分探し』をしたことがないし、『自分らしさとは何か』と悩んだこともないのですよね。

『自由でありたい』とは常々思っていて、それがきっと私の『自分らしさ』なのだろう、とは思います。

でも、この『自由でありたい』という思いも、子どものころからずっと思ってきただけで、

  • 本当の自分とはどんな人間か
  • 自分らしさとはどういうことか

と、自分に問い続けてきた結果ではないのです。

自分がわからない=抑圧されてきた証拠

そこで、考えました。

 

「『自分らしさとは何か』と自分探しに迷走する人たちと、私と、何が違うんだろう?」

 

自分がわからない、自分の本心がわからないという人は、自分の感情を抑圧してきた人たちです。

たとえば、子どものころに子どもでいられなかったり、自分の気持ちを素直に出すとイヤな思いをしたりしてきた人。

その場に適応するために、また自分を守るために感情を押し殺して、どんどん自分がわからなくなっていくのですよね。

その経験は、私にもあります。

20代のころは、自分が何を考え、何をしたいのか、本当はどう思っているのか、わかりませんでした。

私には解離症状があって、外に出て生活をする自分と、それをスクリーン越しに見ている自分がいました。

どちらも感じていることが正反対で、「どっちが本当の私なんだろう?」とあやふやだったんです。

いま思えば、内界から見ている私が『本心』で、外界で立ち振る舞っている私は『社会に適応するための私』だったと思います(いまは統合されています)。

でも、どんなときでも、

  • 自由になりたい
  • 自由でありたい

この気持ちが消えることはありませんでした。今も、『自由』は私の人生のコンセプトです。

ということは、私は、幼いころに『自由』を経験していたのだと思います。その違いではないか、と思いました。

虐待環境での唯一の『自由』

私が育った『虐待』という環境には、『自由』などありません。

親の支配下に置かれ、親の機嫌ひとつで生死や心の安全が左右され、親の言いなりになる以外に選択肢がない。それが、虐待の環境です。

でも、私は子どものころからずっと「自由になりたい」と強く思っていました。

あまりにもその思いが強く、小学高学年のころには、家を出て自立しようとしたくらいです(その結果、家出騒動のくりかえしになりましたが)。

つまり、子どものころからずっと『親から離れれば自由になれる』ということを、私はちゃんと知っていた。それは、紛れもなく祖父のおかげだと思います。

私を唯一愛し、守ってくれた祖父と一緒にいるときは、私はまさに『自由』だったし、『子ども』でいられたのでしょう。

残念ながら、乖離健忘で祖父との記憶はほとんど思い出せませんが、私の無意識の中にしっかりと根付いているのだと思います。

祖父と過ごしたのは、0~10歳までの10年間。この期間に経験したことは、こんなにも人生に影響するのだな、と我がことながら驚きました。

『自分らしさ』を追い求める人たち

先述したように、私は支援活動の中で、大勢の『自分らしさ』を追い求める人たちに出会いました。その大半は、私から見ると、

  • 明らかに迷走している
  • 明らかに暴走している

ように映りました。

自分らしさを求めるばかりに、大金をつぎ込んであらゆるセミナーや勉強会に足を運び、次から次へとメンタルケア系の資格を取り、起業し。

今度は『資格の協会』や『勉強会で出会った仲間』に縛られて、ストレスを溜め、違和感を抱きながらもそこから抜け出せず。

やがて「こんなの私らしくない」と振り切って、また違うセミナーに通って同じことをくり返す。

自分を癒してくれたメソッドに陶酔し、それに異論を唱える人、忠告する人、離れようとする人たちを攻撃し。

そんな自分をOKとしてくれる人たちだけを周りに置いて、最悪は離婚してでも我を貫く。

そんな人たちを、数えきれないほど見てきました。傍からその姿を見ていた私は、

 

「あなたが求めた『自分らしさ』って、そういうことなの?」

 

と、複雑な思いでした。でも、あるとき気づいたんですよね。

「ああ、この人たちは、経験できなかった子ども時代を、いまやり直してるのかもしれない」

と。

子どものように、いろんなことを経験して、経験から学んで、イヤイヤ期に思いどおりにならないことに騒いで、それを受容してくれる親の代理を求めて。

きっと、それをくり返した末に、自我が確立して『本当の自分らしさ』を手に入れるのかもしれない。そう思うと、感慨深いものがありました。

『自分らしさ』の追及=心の余裕?

『やりたいことだけを、やりたいようにやって生涯を終えること』が可能な人は、一握りです。

通常、私たちの日常は『やらなければならないこと』で回っています。そこで、

「やりたいことしかやらない。やりたくないことは一切やらない」

を貫こうとすると、家庭を含め人間関係が壊れてしまったり、生活破綻したりします。

『自分らしく生きること』と『やりたいことを好き勝手にやりたいようにやって生きること』は、別物なのです。

自分らしく生きるということは、『自分の生き方に責任を持つ』ということでもあると思います。

同時に、自分らしさを貫くことは『自分らしくあるためなら、だれかを傷つけたり、迷惑をかけてもいい』という免罪符にはならない。

・・・と、現在の私は思えていますが、過去の私は、

 

「親は好き勝手してたのに、どうして私は好き勝手にしちゃいけないのか。どうして私だけががんばらなくちゃいけないのか」

 

と、いつも怒りに満ち溢れていて、『自分らしく生きること』なんて、考える余裕すらありませんでした。

そう思うと、『自分らしさとは何か』と追い求めている人たちは、『自分について知りたい』と思えるくらい、心に余裕ができた状態なのかもしれません。

少なくとも、『自分らしくありたい』という願いは、未来に目が向いている証拠だと思います。

過去の私を含め、心に傷を負った者にとって未来は怖いものです。その未来に目を向けられたということは、すごいことですよね。

ただ、その未来の方向性や手段を間違えないように。自分の『自分らしさ』を貫くために、だれかの心や人生を壊さないように。

少しずつ、丁寧に道を探っていけたらいいですね。

 

秋好 玲那

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北九州市在住の被虐待当事者です。 2000年から、少年院やグループホームなどで被虐待者の自立支援及び相談業務を行う傍ら、児童相談所などでの講演活動、大学など...

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