【0歳】DV、軟禁、出産、離婚
こんにちは。STOP!ABUSE:管理人の秋好玲那です。
私は、両親の夫婦間レイプの末、この世に生を受けました。残念ながら、望まれて産まれたとは、お世辞にも言えないでしょう。
出生前、そして乳児期の私が過ごした環境は、とても独特だったと思います。
もちろん、私自身には当時の記憶はありませんが、母にとっては人生最大のトラウマになっているはずです。
今日は、私と母がどんな環境にいたかをお話ししたいと思います。
表現には気を付けたつもりですが、暴力被害の経験がある方は、フラッシュバックに気を付けて読んでくださいね。
母親の結婚生活
母と父は、母が19歳のときに結婚しました。『虐待児だった母』でも書いたように、母にとって結婚は、祖母から離れる唯一の手段だったのだと思います。
父に懇願されて結婚した母は、「それなりに幸せな暮らしができるだろう」と思っていたはずです。
ところが、父はすさまじいDV野郎でした。
暴力と軟禁生活
日夜暴力をくり返し、窓は外から鍵を取り付けられ、1mmも開かない状態。自分が出かけるときは、ドアの外からも鍵をかけられる。
つまり、母の結婚生活は、軟禁状態だったのです。
両親が住んでいた場所は、比較的治安が悪く、当時は暴力団の人も多く住んでいたと聞いています。
その中で、暴力を受けて派手な音がしようと、母や父が大声で騒ごうと、だれも違和感がなかったのかもしれません。
暴力に詳しくない人からすれば、
と思うかもしれませんが、暴力が日常になっている被害者にとっては、なかなかそこまで頭が回らないものです。
逃げても、また追いかけてくるかもしれない。行く当てもない。そんな恐怖や不安は、経験した人にしかわからないと思います。
特に、実家から飛び出すこともできなかった母にとっては、『逃げる』という選択肢がもともとなかったのではないでしょうか。
また、超・ファザコンの母は、祖父に迷惑や心配をかけたくないという気持ちが異常に強かった可能性もあります。
買い物にも行けず、父が買ってくる食べ物しかない状況とストレスで、半年も経たないうちに、体重が30kg台まで落ちたそうです。
夫婦間レイプの末、妊娠
いつごろからかはわかりませんが、私が聞いた話をもとに考えると、父は結婚して早々、別の女性と同居を始めたようです。
自分が懇願して結婚し、母を軟禁しておいて、別の女性と同居・・・わが父ながら、謎でしかありません。
たまに食べ物を持って帰ってきては、暴力をふるい、夫婦間レイプ。もはや鬼畜の所業です。その末に、母は私を身ごもりました。
妊娠がわかっても、軟禁状態なので病院にも行けず、まともな食事もできず、
- 環境の悪さで勝手に流産するか
- そのまま育って産むか
母には、上記の二択しかなかったと思います。このころの食生活は、小麦粉を水で溶いて、焼いて食べるのがメインだったと聞いています。
ときどき、母は本当は産みたくなかったんじゃないかと思います。私なら、そんな男の子どもは産みたくないと思うだろうから。
この環境下で、日増しに大きくなるお腹を見ながら、母はどんな気持ちですごしていたんだろう・・・と何度も想像するのですが、未だにわかりません。
不安だったのか、絶望だったのか、恐怖だったのか、すべてだったのか。
ただ、その中には、一縷の望みもあったと思います。それは、私自身が母と過ごした中で実感したことです。
「唯一の家族、唯一の味方ができた」
母は、そう思っていたと思います。この母の思いが、その後の虐待につながってしまった―。少なくとも、私はそう感じています。
私、この世に生まれる
いよいよ出産というときになって、やっと母は外に出ることができました。
私を産むとき、母は妊婦にしては痩せすぎていたようで、そのせいなのか、相当な難産だったと聞いています。
医師は、途中で自然分娩をあきらめて、帝王切開をすすめたそうですが、
「絶対に体に傷をつけるのはイヤ!!」
という、母の謎のこだわりが発揮。最終的には、医師が母の上に乗っかって、力ずくで押し出すという強行突破出産でした。
栄養が十分でなく、ストレスに晒され続けた妊娠生活の割に、
- 心臓に問題があり(どういう問題があったのかは定かではない&幼児期には回復)
- 低血圧
- 足の股関節にあるはずの軟骨がない
- アトピー
- 肝機能が著しく弱い
程度の、比較的健康な状態で生まれました。母、すごい!
赤ん坊を抱えての軟禁生活
私を出産し、入院している間、母は「離婚して家に戻りたい」と、泣いて懇願したそうです。でも、祖母は、
「体裁が悪いから離婚なんかしないで」
と冷ややかに言い放ったのだとか。この一言は、母にとっては崖から突き落とされたように感じたと思います。
「どうして離婚したいの?」
「何があったの?」
とも、祖母は聞かなかった。ただただ、自分の体裁だけを考えて、頭ごなしにシャットアウトした。母は、これをきっかけに、祖母に対して恨みを募らせるようになっていきました。
母の中で「私には(愛してくれる)母親はいない」と決定づけた瞬間でもあったようです。
DV生活に舞い戻る
退院の日、父は母を迎えに来たそうです。このときの母は、どんな気持ちだったのでしょうか。
おそらく、これから始まる生活に多大なる不安と恐怖を感じていたと思います。父がにこやかに振る舞えば振る舞うほど、母にとっては恐怖だったでしょう。
もしかしたら、父は、外面はよかったのかもしれません。祖父も祖母も、まさか母が暴力を受けているなんて、想像もできなかったのではないかと思います。
とにかく、母は父に連れ戻され、またしても暴力&軟禁生活になりました。でも、いままでは自分ひとりで済んだことが、今度はそうはいきません。
何もできない赤ん坊の私がいる。外部と遮断され、暴力と飢えと戦いながら、子育てをしなければならない。
そんな極限生活の中で、私が怪我をすることもなく、飢えることもなく生きられたのは、ひとえに母のおかげだといまは思います。
母が妊娠した経緯を考えても、私は、憎しみの対象となっていてもおかしくない存在です。
でも、母は私を死なせないように、父が私に暴力を振るわないように、必死だったからこそ、いまの私がある。
それは、母が私を愛していたからこそだと、いまは思っています。
両親の離婚
祖父は、とてもやさしく誠実でまじめな人間でしたが、やはり昔の人なので、嫁いでいった母と自ら接点を持つことはしなかったのだと思います。
でも、いつも気にかけていて、入院中の母の様子が気がかりだったのでしょう。
また、母も祖父を心配させないように、居住地へ来ないように立ち振る舞っていたのだと思います。
母が結婚してから、そして出産後も、母が軟禁されていた自宅を訪問した親族は、ひとりもいません。
でも、ある日、祖父の心配が頂点に達して、初めて母の様子を見に行ったとき、祖父はわが目を疑ったそうです。
私を殺そうとした母
あらゆる窓につけられた、数え切れないほどの南京錠。ドアにも、膨大な南京錠が取り付けられていました。
祖父は、一番近いお店でドライバーを買って、急いでドアの鍵を外して中に飛び込みました。
そこで目にした光景は、母が私の首を絞めている姿。
剥ぎ取るように私から母を引き離し、手に取れる範囲の荷物を持って「帰るぞ!」と言ったとき、母は私を置いてフラフラと玄関に向かったそうです。
慌てて祖父が私を抱いて、後を追ったのだとか。いろいろな意味で、危うく死ぬところでした。
このときの記憶が、私の体に残っているようで、未だに私は首元に何かあると息苦しくなります。
マフラーも巻けないし、タートルネックはもちろん、Tシャツも着れません。お布団を首までかけることもできないし、Yシャツのボタンも留められません。
人間の体って、すごいですよね。
でも、母は、私だけを殺そうとしたわけじゃないと思います。きっと、一緒に死ぬつもりだったのでしょう。
それ自体も許されることではありませんが、当時の母の心情や思考回路に思いを馳せると、その選択肢しか浮かばなかっただろうと思います。
私が母と同じ境遇にいたなら、とっくに殺していたかもしれません。
軟禁・DVという環境の中で、何もできない赤ん坊の私が9ヶ月まで生きられたのは、間違いなく母のおかげです。
祖父激怒、即離婚
母の結婚生活の実情を知った祖父は、体が震えるほど怒っていたそうです。それはそうでしょう、かわいい長女がひどい目に遭ったのですから、当然です。
ところが、父は、のうのうと実家まで母を迎えに来たのです!!
どのツラ・・・もとい、どんな顔で来たのか、この目で見られなかったことが悔やまれます。父の姿を見た祖父の怒りは想像に難くなく、
「慰謝料も養育費もいらん!親権も渡さん!今すぐここで離婚届書いて、出て行け!」
と、怒鳴ったのだそうです。祖父が怒った姿を見たことがない私には、想像もつきません。
あまりの祖父の剣幕に、離婚届にサインをして、尻尾を巻いて帰った父。わが父ながら、恥ずかしい・・・。
こうして、父と母は、私が9カ月のときに離婚しました。
いまでも、父がどこに住んでいるのか、何をしているのか、そもそも生きているのかさえ、私は知りません。
ちなみに・・・。
私には、腹違いで同じ歳の弟がいるそうです。父は、同居していた女性との間にも、子どもをつくっていました。
もう、ツッコミどころがありすぎて、こっちが疲弊しそうです。もちろん、会ったことはありません。
顔も知らない弟ですが、こんな父のもとで健全に育ったとは、到底思えません。社会で良い大人たちと出会い、幸せでいてくれるといいのですが。