支援者が「べき論」を使う危うさ

支援者が「べき論」を使う危うさ
管理人のひとりごと

こんにちは。STOP!ABUSE:管理人の秋好玲那です。

私は、自分の顔が大嫌いです。

美人とか醜いとかの美的感覚で「嫌い」なわけではありません。私を違法風俗店に売り飛ばした祖母に似ているからです。年々、歳を重ねる毎に似てきます。

だから、鏡を見るのも、写真や動画を撮るのも撮られるのも大嫌いです。仕事上、

「写真や動画を撮ってSNSに載せたらどうか」

と言われることも多くあります。本業はコンサルなので、そうすることで集客は早いし、売上も上がるということは重々わかっています。でも、嫌なんです。

自分の顔が記録に残る、ということに、どうしても抵抗があります。

一応、ホステスをやっていたくらいなので、たぶんそれなりの顔立ちなのだろうとは思いますが、そんなことはどうでもいいのです。

とにかく、自分の顔が大嫌い。そんな私が思っていることをつづってみたいと思います。

自分の顔が嫌い=無価値?

私は昔、自分は無価値な人間だと思っていました。無価値観の一部には、確実に「祖母に似た私の顔」がありました。

もし私が痛みに強い(耐えられる)人間なら、確実に整形したと思います。

鏡を見るたびに、自分を売り飛ばした祖母を思い出させる自分の顔にげんなりするからです。

きれいになりたいとは思わないけど、別の顔にしたい。無価値観がまったくなくなったかと言われたら、嘘になります。

何かあると感情がフラッシュバックして「私は無価値だ」と感じることはあります。

でも、何もなければ、基本的にいまの私は「私は無価値だ」とは思っていません。

「自分の顔が嫌い」ということと、「私の存在価値」はまったく関係ないと思ったからです。

自分を好きになる呪縛

ネットでは、「自分を好きになろう」という言葉がたくさんあふれています。カウンセラーによっては、「自分を好きになれるといいね」と言う人もいます。

でも、私はずっとその言葉に違和感を抱いてきました。

  • どうして自分を好きにならなきゃいけないんだろう?
  • どうして自分を好きじゃなきゃいけないんだろう?

自己否定をしないことが望ましいのであれば、「顔が嫌い」「自分のことが嫌い」と思っている私も私。

「いまの私はそう思ってるんだな」と受け入れるだけでいいと思うんですよね。それもOKとすることが「自己肯定感」なのではないか、と。

どうしてそれを飛び越えて「好きになる努力」をしないといけないのかな、とずっと思っていました。

でも、世間は「自分をもっと好きになったほうがいい」みたいなことを言う。

それをずっと聞いていると「好きになれない私=ダメ」みたいになって、「好きにならなきゃいけないんだ」という呪縛になっていたと思います。

「自分を愛すること」という呪縛は、「自分の顔を愛せない私」に拍車をかけた気がするんです。

トラウマの引き金になる自分の顔を好きにならなきゃいけないのに、好きになれない私はやっぱり生きてる価値がない、みたいな。

価値があるとかないとかどうでもよくない?

冷静に考えると、私にはいろんなことができます。こうして文字で発信することもできるし、本業ではコンサル業(人に教える仕事)をしています。

だれかのために料理をすることもできるし、好きなときに好きなものを買えるくらいの経済的余力もあります。

できることは限られるし、できないこともたくさんあります。むしろ、できないことのほうが圧倒的に多いです。

だからこそ、できることを必死にやるしかないし、できることを増やす努力しかできない。

ただそれだけのことで、私にどんな価値があるのか、存在意義は何かと問われたら、「そんなの知らんがな」と思ったんですよね。

価値があろうとなかろうと、私は私、それでいいじゃないかと。

そういうことに振り回されて、何もできない時間を過ごすほうが時間の無駄だな~と思ったんです。

自分を好きにならないといけないの?

私は、私の顔が嫌い。ただそれだけのことで、それ以上でもそれ以下でもない。私は私。

それでいいじゃん、と思ったときに、改めて「自分を好きになる」という言葉を見聞きして、思いました。

自分のことを100%好きじゃないとダメなの?自分のことを100%好きになれないと、価値のない人間なの?

そんなことはないはず。私は自分の顔が大嫌いだけど、違う人になろうとは思わない。だからといって、整形する人を非難もしない。

なんでこの顔で生まれたんだろう、こんな思いするために生まれたわけじゃないのに、なんて、考えても答えの出ないことに現実逃避したくない。

でも、それも私の価値観。贅沢な悩みだと非難されることもあるし、整形するやつは信用ならんと言う人もいる。

答えの出ないことで現実逃避したい人もいるし、そうやって変わらない選択をする人もいる。それも、その人の自由。

・・・と思ったときに、「あ、なんだ。『自分を好きになること』に囚われていたのは私自身だ。0-100思考になってたな」と気付きました。

自己満足の支援

そういう自分に気づいたとき、ふと周りを見ると、「自分の現実逃避に人の傷を利用する人」が大勢いることに気づきました。

私を例にすると、「顔が嫌い、これも私。やっと受け入れられるようになった。いまはそれでいいと思ってる」と言っているのに、

「それでは自分がかわいそうだ。もっと自分を好きになってあげないといけない」

とゴリ押ししてくる人がいるんですよね。

で、私が自分の顔を好きになれるようにと奔走して、何をしても私が自分の顔を好きになれないとわかったときには、「私は何もできない」と落ち込んで、無価値だと自己否定の材料にする。

そういう人を見ていると、その人自身にたくさん問題があることに気づいたんです。

私が自分の顔を好きになる云々以上に、その人のほうが圧倒的に現実的に困っているのに、その問題と向き合おうとしない。

これってすごく怖いことだな、と思いました。同時に、すごく迷惑だなとも思ったんですよね。

「べき」論は危うい

支援って、支援を受ける人のためにあるものだと思うんです。その「支援を受ける人」には、いろんな人がいて、いろんな考えがある。

その多種多様な考えや希望に基づいて、その人に最適と思われることをするのが望ましい。

もちろん、支援を受ける立場にある人は、暴力によって考え方が歪んでしまっていたり、極端な思考になっていたり、そもそも自分で考えることすら手放してしまっている人もいます。

そんな人たちに対して支援者が、

  • 〇〇しないといけない
  • 〇〇すべきだ

と言うのは、一歩間違えれば新たな主従関係を生むだけだと思ったんです。また自己否定の材料になることを、支援者が強いていいのかな、と。

少なくとも私は、これはダメだろうと思いました。

共感が生む同一化

支援者の中には、自分も被害を経験している人も多くいます。私も、まさにそのひとりです。

経験がある分、机上の勉強のみで支援をしている人たちに比べれば、被害を受けた方々の気持ちを熟知しており、同じ目線からサポートをすることができます。

被害経験者の共感は、クライアントが安心して話せる環境を整えるためには必要なことです。

ただし、ときには支援者が自分自身を被害者と同一視してしまうことがあります。

そんなとき、自分自身を正当化するために被害者を追い詰める行為に発展することがあるのですよね。

たとえば、性被害の支援現場で、被害者が警察に届け出たくないと言ったとき、

「あなた以外にも被害が出たらどうするんですか。声を上げるべきです」

と支援者が強要したことがあります。

被害者は渋々被害届を出したものの、取り調べや裁判で大変な苦しみを味わい、家から一歩も出られなくなってしまいました。

その支援者は、自分自身も同じような被害経験をしており、「あの時もっと強く声を上げていれば・・・」と後悔していたんです。

この例では、支援者が被害者を傷つけることになり、本来の目的であるサポートからも遠ざかってしまいました。

もちろん、声をあげることの重要性については一理あります。ただ、万人に適用できる解決策ではない。

届け出を出させたことで、その支援者は満足そうでしたが、私は何とも言えない気持ちになりました。

まとめ

私個人の話、支援現場の話・・・と少しごちゃごちゃしましたが、思ったことをそのまま書いてみました。

支援者が「べき論」を使うのはとても怖いことです。

私は自分の顔が嫌い、そんな自分を否定してないけど、「好きになるべき」と言われたら強い抵抗感になります。

これが支援を必要としている人だったら、人生を狂わせるかもしれない。

私はそんなことはしたくないし、そもそも自分が絶対に正しいなんて思っていません。

だから、相手が本当はどうしたいのかをしっかり聞いて、本人にとって最善と思われる道を一緒に探したいのです。

 

秋好 玲那

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北九州市在住の被虐待当事者です。 2000年から、少年院やグループホームなどで被虐待者の自立支援及び相談業務を行う傍ら、児童相談所などでの講演活動、大学など...

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