秋好玲那の育成歴&経歴

秋好玲那の育成歴&経歴
体験談

こんにちは。STOP!ABUSE:管理人の秋好玲那です。

この記事では、サイト運営者:秋好玲那の育成歴と経歴をまとめています。

※虐待・性暴力の被害者は、フラッシュバックにご注意ください。

誕生~10歳

▼ 2歳|熱湯風呂事件

アトピーやアレルギーが頻発してかゆみでギャン泣きしていたそうで、そのかゆみを止めるために(?)大人も手をつけられないほどの熱湯に入れられましたw

さらにギャン泣きする私に「近所に知られたら体裁が悪いから泣かないようにしろ」と祖母が言った光景は、いまでも忘れられません。

ちなみに、これが私の最古の記憶です。

▼ 3歳|初めての性被害

この辺は記憶が曖昧で、もしかしたら4歳のころかもしれませんが、初の性被害に遭いました。

近所に住んでいた中学生の男の子で、私の記憶の限りでは、最低でも2回はありました。

オーソドックスな(?)「お医者さんごっこしよう」的なところから始まりましたが、どれも途中までしか記憶がありません。

もしかしたら、最後まで被害に遭ったのかな?と思っています。

▼ 4歳|はさみと紙で異常行動

はさみで紙を切り刻むのが大好きでした。危ないからと何度も何度も取り上げられましたが、その度にはさみを探し出し、ひたすら切り刻む。

壁に向かって、ひたすら紙をジャキジャキ切っている4歳児、怖すぎです。

いま思えば、切り刻みたかったのは自分自身ではないかな~と思います。

▼ 5歳|この子は死にました。

母の部屋には、おすわりができるようになったくらいの子どもの写真が飾ってありました。

母はその写真を見るたびに「この子は死んだ、かわいかったのに」と嘆いていたので、

「子どもを亡くしたんだ、気の毒に」

みたいに思っていたところ、小学6年生くらいのときにその写真が自分の幼少期だと知り、

「母の中では、私は死んだことになっている!!」

と驚愕しました。

▼ 6歳|大人の発言に違和感

母はレディ・ガガのような人で、とっても派手でした(アパレル店員で流行に敏感なセンスのいい人でもありました)。

私は派手な母に対して何とも思っていなかったのですが、

「あんな人に育てられてかわいそうに」
「あんな親だと子どもは苦労する」

と、私を見るたびに外の大人たちが言うことに、

「私は『かわいそう』なのか?」

と、大きな違和感と不快感を抱いていました。なんだか、『高みの見物をしている人だからこそ言えるセリフ』のような気がして。

▼ 7歳|ストレスで緊急搬送

7歳にして神経性胃炎で救急車で運ばれました(胃の激痛と嘔吐が止まりませんでした)。

医師からは「子どもなのに」と驚かれ、家庭環境を根掘り葉掘り聞かれたそうです。「体裁が悪い」と祖母から怒られました。

母と同じことができないと殴られ、机に縛られ勉強させられ、答えられないと夜通し殴られ・・・という日々でした。

▼ 8歳|命は入れ替え制

ある日、学校から帰ったら、可愛がっていた飼い犬が2匹とも忽然と姿を消していました。

祖母に尋ねると「叔母が出産で帰ってくる。赤ちゃんが生まれるのに犬は不潔だから保健所に連れて行った」と言われました(庭で飼ってたのに?という謎)。

このときの衝撃たるや、言葉では表せないものでした。「あ、私も何かあったら、こうやってカンタンに捨てられるんだ」と本気で思ったと同時に、

「自分で生きていかなきゃいけない」

と無意識に思いました。

▼ 9歳|母の暴力で緊急手術

母に殴られている最中、母の爪が私の左目にぶち当たり、緊急手術になりました。

私からすると、母の暴力よりも、目の手術のほうが何百倍も怖かったです!!

麻酔の注射もメスも全部見えるし、怖すぎてギャン泣きすると「泣いたら手術できない!」と看護師に怒鳴られるし、暴れないように押さえつけられるし。

これがトラウマになって、いまもマツエクをしたり、コンタクトレンズを入れたりできません。目に何か近づく、というのが怖すぎてできません。

▼ 10歳|最愛の祖父、他界

母に殴られ、祖母に罵られ・・・という生活の中、私にとって唯一の味方は祖父でした。その祖父が、10歳で他界。

これを機に、私の生活はガラッと変わりました。深夜までだれも帰って来ず、食事もなく、いよいよ自分でどうにかしないといけない状態に。

通学路にあるお弁当屋さんや喫茶店の求人を見て「雇ってもらえないかな」と考えていました。本当に、働いて稼ぎたかったです。

でも、あたりまえながら雇ってもらえないので、お腹が空いたら万引きするようになりました。

11歳~20歳

▼ 11歳|殴り合う母と祖母

このころから、もともと犬猿の仲だった母と祖母の関係が悪化し、寄ると触ると殴り合うようになりました。

ただの殴り合いならまだしも、固定電話を引きちぎって頭を殴ったり、包丁を振り回したり、互いに凶器を持って殴り合うので、大変でした。

それを止めるのは私の役目で、いつも、

「どうして親子でこんなに憎しみ合えるんだろう」

「なぜ母親(祖母のこと)なのに娘(母)のことをこんなに罵り殴れるんだろう」

と、疑問しかありませんでした。自分も母親からめちゃくちゃ暴力を受けて、骨を折ったり血を吹いたりしていたのに、母のことを気の毒に思っていました。

▼ 12歳|餓死しかける

母と父の関係性をまだ知らなかった私は、家庭環境から逃れるための手段として、父を探し始めました。

戸籍謄本を取得し、記録にある父の最後の情報を頼りに家出をして、2~3週間ほど帰らなかったと思います。

これを知った母は激高し、過去最大級の暴力と暴言の末、自室に2ヶ月ほど監禁されました。

たまに祖母が水やおにぎりを持ってきてくれましたが、それ以外は何も食べるものや飲むものがなく、思い出したくないくらいの地獄絵図でした。

▼ 13歳|売り飛ばされる!

知らぬうちに祖母が家屋&土地を担保に5千万円強の借金をつくりました。裁判所から差し押さえ通知が来て発覚。

すったもんだがあって、その借金を返すために、祖母は私を違法風俗店に売り飛ばしました。もともと大嫌いだった祖母が、一層嫌いになりました。

児相に一時保護されたのも、このころ。でも「売り飛ばされたから」ではなくて「親子関係が悪いから」という理由でした。

▼ 14歳|登校拒否&家出三昧

家にいると身体的に危険&精神的にも落ち着かないので、祖母や母が帰宅する夜は、自宅を抜け出していました。

とにかく家を出たくて何度も家出しては、捜索願を出されて引き戻され・・・のくり返し。でも、少年課の刑事さんは親身になってくれるやさしい人でした。

深夜にウロウロする&家でも夜は殴られて眠れず、このころにはバイトして自力生活をしていたので、昼間は学校に行かず寝ていることが多かったです。

▼ 15歳|殺人計画

家庭環境は悪化の一途。私が殺されるか、私が母を殺すか、みたいな状態になっていました。盆栽が趣味だった祖父が残した除草剤を見ながら、

「どう配合したら母を殺せるか」
「いつどのタイミングで実行するか」

と、真剣に悩んでいたころです。当時はまだネットがなかったのでよかったです。もしカンタンに検索できる状態だったら、99%実行したと思います。

▼ 16歳|自殺未遂&高校中退

母が服薬自殺を図り、親族一同から「おまえのせいだ」と散々罵られました。自分の中でプツッと何かが切れた感じがして、

「もういい。こんな家、捨ててやる」

と、家を出ました。高校を辞め、年齢をごまかして、寮のある水商売を選びました。というか、それ以外に雇ってくれるところがありませんでした。

晴れて、16歳でホステスになった私。心の底から「やっと自由になった!」と思いました。

▼ 17歳|社会の壁と孤独

家を出て自由になったはずなのに、どんどん心は不自由になっていきました。

人とコミュニケーションが取れない、人の言っていることがわからない。家族のことを聞かれて話してもウソと言われ、親不孝だと叱られる。

親から暴力を受けてきたことが、社会に出た途端、自己責任になりました。

『求められる私』を演じていないと、だれからも受け入れられない現実は、周りに人がいればいるほど孤独が増すばかりでした。

▼ 18歳|年上女性とトラブル

職場では、男性にはかわいがられるものの、女性からは目の敵にされました。特に、母親や祖母と近い年齢の人とは、一切気が合いませんでした。

いま思えば、私自身が母や祖母を投影していて、嫌悪感が態度に現れていたからだと思います。

とにかく、年上女性とのトラブルが絶えませんでした。

▼ 19歳|『結婚』が怖い

あるとき、職場でお客様からプロポーズされそうになりました。それを小耳にはさんだ私が無意識に取った行動は、『その場から走って逃げる』。

このとき、私の意識的には、結婚願望がありました。結婚して、自分には与えられなかった家庭を築きたい、と思っていました。

でも、実際にそれが目の前に降ってきたとき、急に怖くなりました。私は結婚してはいけない、子どもを産んではいけない、とも思いました。

▼ 20歳|教師に襲われる

20歳の誕生日は、お店の顧客だったある中学校の教頭から力づくでホテルに連れ込まれました。逃げようとしたら「大人を馬鹿にするな」と殴られました。

また、中学時代の担任から「20歳になったからもういいだろ」と襲われました。

「学校で偉そうなこと言って、実際はこんな奴らなんだ」と教師や公務員が不審になりました。

21歳~30歳

▼ 21歳|ワーカホリック発動

このころからワーカホリックでした。1日12時間くらい働くのがデフォルト。それが普通だと思っていました。

いま振り返れば、仕事をしていないと、精神的にしんどかったんだと思います。

時間があると、自分の人生や家庭環境のことを考えざるを得なくなるし、自分の感情が抑えられなくなるからだったのではないかと。

仕事で忙しくしていれば、余計なことを考えなくてすむので。

▼ 22歳|『家族』を体験

自動車学校で出会った教官と仲良くなり、本当に我が子としてかわいがっていただきました。

ご家族全員が私を「我が家の長女」として接してくれたり、対外的にも「うちの長女(姉)」として紹介してくれたり。

実家に帰るってこんな感じなんだろうな、家族で食卓を囲むってこういうことなんだな、と『家族』を体感できた貴重な経験でした。

ここで得たものは、私の中の『家族』を覆してくれました。

▼ 23歳|妊娠・流産

当時付き合っていた男性との間に、子どもができました。

「子どもをつくろう」と話し合ってのことでしたが、実際に妊娠がわかった途端、男性は音信不通になりました。

悩んだ結果、働けない間だけ実家に帰って産もうと思いましたが、母親の暴力で流産。この後遺症で、子どもが産めない体になりました。

▼ 24歳|解離性障害で失明

原因不明の43度以上の高熱が続き、失明状態になりました。光は分かるけど、映像が見えない、という感じです。半年間くらい続きました。

病院に行っても、いろんな病院に行きましたが、詐病・仮病と言われるだけで、何もしてもらえませんでした。

おかげで生活保護も何も受けられず、見えない中、デリヘルで働き、集団レイプに遭いました。人生で一番どん底だったと思います。

▼ 25歳|売れっ子ホステスに

どん底を味わい、「このままでは底辺のままになる」と思い、一念発起してがむしゃらに仕事をしました。寝る暇も惜しんで、必死に働きました。

その結果、年商1億のナンバーワンホステスになることができました。自分で自分の人生を切り開いた年だったと思います。

正直、心折れそうなことは数えきれないほどあったし、自分には不可能ではないかと何度も思いましたが、この時期の経験や学びは一生ものでした。

▼ 26歳|性被害の記憶蘇る

実は、26歳まで、幼少期に性被害を受けていた記憶がありませんでした。パートナーと一緒に、幼児への性暴力に関するニュースを見ていて、

「あ、私も受けたことある」

と無意識に言い、自分でも「え?」となりました。それから徐々に記憶が蘇った感じです。

いま振り返って考えると、安心して思い出せる環境にいたんだな、と思います。

▼ 27歳|人生で一番の充実期

このころは、1日20時間働いていました。寝るときも椅子に座ったままで、2~3時間仮眠して、また仕事・・・の日々。

ほとんど記憶にないくらい仕事に追われていましたが、それでも充実感はありました。

がんばればがんばっただけ、数字で返ってくる。それが楽しかったし、お客様が喜んでくださるのが本当に嬉しかったです。

いいパートナーに恵まれ、仕事も順調、すばらしいお客様に囲まれ、毎日がとても幸せでした。

▼ 28歳|独立

結局、仕事は辞めずに独立。3店舗のお店を経営するオーナーママになりました。

自分でお店を経営してみて、お店を運営すること、人を雇うこと、人を使うことの大変さを改めて痛感しました。

同時に「私は相当な問題児だったな」と心から反省・・・。

▼ 29歳|父親代わりの人他界

私に『家族』を教えてくれ、娘だとかわいがってくれた父のように慕っていた方が亡くなりました。胃ガンでした。

仕事で忙しい私を気遣って、入院していることすら知らされておらず、「今週が山場」と連絡を受けたときはショックで言葉もありませんでした。

葬儀には身内席で参列させていただきましたが、どうしても火葬場に行くことができず。このとき、初めて「仕事を辞めようか」と真剣に悩みました。

▼ 30歳|子宮頸がん発覚

子宮頸がんと診断された瞬間、目の前が真っ暗になりました。

・・・と言いたいところですが、ちょっと違って「女としての人生が終わったな」という感じでした。

性風俗にしろ、ホステスにしろ、女だからこそやってこれた人生で、女だからこそ生きてこられたから、命の危機より人生の終わりを感じたんです。

「私はこれからどうやって生きていけばいいんだろう・・・」と虚無感に襲われました。

31歳~40歳

▼ 31歳|ホステス引退

子宮頸がんになったことを機に、「これからは自分の好きなように生きてもいいんじゃないか?」という気持ちが湧きました。

振り返れば、親に支配された16年、自分の感情に振り回された8年、お客様に尽くした7年。悔いはないものの、どこか心の中に、

「私は自分が好きなことを何もしていないのではないか」

という思いがありました。「おまえは自由に生きたほうがいいよ」というお客様の言葉も後押しとなり、経営していたお店を売却し、ホステスを引退しました。

▼ 32歳|支援活動開始

支援活動自体は、23歳のころから携わってきました。性被害、DV、虐待などを中心に、被害者支援がメインでした。

でも、私はずっと「被害者の心のケアだけが独り歩きしているのでは・・・」という疑念を抱いていました。

そこで、所属していた女性支援団体を脱退し、個人での活動を始めました。このときに掲げたコンセプトが「被害者も加害者もつくらない支援」です。

▼ 33歳|切る皮膚がない子

精力的に支援・講演・啓蒙活動を行っていた年。

このころはまだ『虐待当事者』として活動している人が少なかったので、マスコミやメディアにも数多く取り上げられました。

児童相談所での講演会を終え、所内を見学させてもらったとき、ある女の子と出会いました。

元の皮膚がないほど体中を切り刻んでいた彼女の姿は、衝撃でした。この出会いは、私の支援に対する考えを一変させてくれました。

▼ 34歳|コンサル&支援活動

遊び半分で書いていたホステスブログがヒットしてしまい、コンサル業を始めることになりました。

支援活動の傍ら、長年やってきた水商売の話ができたのは、私にとっても少し心が楽になる術だったように思います。

そして、今現在の私も、支援の傍らでコンサル業をやっています。34歳で現在の土台をつくれたのは、偶然の結果で、ただただ幸運でした。

▼ 35歳|仕事、仕事、仕事

35~38歳は、人生で一番脂がのっていた時期だと思います。とにかく、仕事しかしていませんでした。

20時間働き、寝るときもデスクチェアで、わざわざフルフラットになる椅子を買いました。

数日徹夜はあたりまえで、コンサル業と支援活動に没頭していた時期です。

▼ 36歳|日本で初めての支援

児童虐待当事者として少年院に携わったのは、私が日本初なのだそうです。そのご縁を結んでくださった法務教官が、この年、転勤になりました。

被害者を加害者にしたくない私と、被害児であり加害児となってしまった少年たちの再犯を防ぎたい教官。立場は違えど、同志のような存在でした。

法務教官からいただいた数々のお言葉は、私の現在の支援活動でも柱になっています。

 

この後は、ちょっと記憶がごちゃごちゃしているので、整理がつき次第また追記します^^

秋好 玲那

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北九州市在住の被虐待当事者です。 2000年から、少年院やグループホームなどで被虐待者の自立支援及び相談業務を行う傍ら、児童相談所などでの講演活動、大学など...

プロフィール

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