虐待児だった母

虐待児だった母
体験談

こんにちは。STOP!ABUSE:管理人の秋好玲那です。

私と母の関係は、まさに『負の連鎖』です。なぜなら、母も虐待被害者だから。

誤解しないでいただきたいのですが、虐待を受けた人が、必ずしも我が子に虐待をするわけではありません。

虐待を受けて育ったからこそ、反面教師にして、愛情を注いで子育てをしている人たちも大勢います。

ただ、私の母は、その連鎖を断ち切れなかったし、断ち切り方もわからなかったのだと思います。

とても孤独な人だから、周囲に助けを求めることもむずかしかったのでしょう。

今日は、私が生まれる前の、母が育った環境について、ザッと触れてみたいと思います。

祖母から虐待を受けていた母

母は、祖母から虐待を受けていました。身体的・性的な暴力はなかったものの、精神的虐待とネグレクトには遭っていたようです。

祖母にとって、母は育てにくい子だったのだと思います。もともと内気でおとなしい母と、社交的で見栄っ張りの祖母とでは、相性が悪かったのでしょう。

母は、叔母・叔父2人の4人きょうだいの長女として生まれましたが、祖母は母だけに冷たく接し、暴言を吐き、のけ者にしていたそうです。

そんな母を気遣い、守ってくれたのは、祖父。おかげで母は、超超超・ファザコンです。

祖母となるべく距離を取るために、即席で祖父が作った、たった2畳の母専用の部屋。やがて、その空間は母にとって世界のすべてになっていきました。

唯一の親友はTV

おとなしく引っ込み思案だった母は、あまり友人がいませんでした。いま考えると、もしかしたら母は、ASDグレーゾーンだったのではないかと思います。

こだわりが強く、独特な世界観を持っていて、好きなこと・好きなものには過集中でのめり込む。

人とのコミュニケーションが上手ではなく、頭はいいけど情緒的会話が苦手で、心を許した相手には言いたいことをズケズケ言ってしまう。

母は、そんな子どもだったようです。

祖母からものけ者にされ、きょうだいたちから離れた部屋でひとりで過ごすことが多くなった母にとって、唯一の親友はTVでした。

母は昭和31年生まれ。比較的裕福だった我が家には、昭和35年にカラー放送が始まった当初から、カラーTVがあったそうです。

自分専用のTVを手に入れた母は、家族からどんどん孤立し、アニメや音楽、映画の世界にはまり込んでいきました。

それが祖母は気に入らなかったらしく、さらに関係が悪化し、母は一層TVの中に居場所を見出していきました。

・・・という母の生い立ちを聞いたとき、一番強く感じたのは『母の孤独』です。

家を出たい一心で結婚

高校卒業後、母は地元のある新聞社で働いていたそうです。そこで、私の父と出会ったと聞いています。

母には、小学生のときからずっと好きな人がいました。どんな事情があったかわかりませんが、その男性との交際や結婚は、祖母から大反対されたんだとか。

そんな中、猛アタックしてきたのが、私の父。母は父を愛してはいませんでしたが、

  • そんなに思ってくれるなら
  • 家を出られるのなら

この2つを理由に、父との結婚を決めたそうです。

このとき、母は19歳。いまなら、当時の母の気持ちがわかります。きっと、母はいろんなことに絶望していたのでしょう。

愛する人とも結婚できない。祖母から離れたくても離れられない。家を出て自立しようにもお金がない。祖父を捨てて、勘当同然で飛び出すこともできない。

時代背景もあり、まだ19歳の自分にはどうすることもできない、心も体もがんじがらめな日々から、とにかく逃げたかったのだと思います。

そんなとき、自分を現状から連れ出してくれる人が現れたら、その人にすがりたくなる。そんな母の気持ちが、いまの私には、息が詰まるほどわかります。

 

こうして、母は父と結婚しました。めでたしめでたし・・・

となればよかったのですが、ここからさらに悲劇が始まります。改めてつづってみて、今の私は、

「母を連れ出してくれた人が、本当に母を愛して大切にしてくれる人であってほしかった。幸せにしてくれる人であってほしかった」

と思います。そうしたら、私はこの世に生を受けなかったのだけど。

秋好 玲那

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北九州市在住の被虐待当事者です。 2000年から、少年院やグループホームなどで被虐待者の自立支援及び相談業務を行う傍ら、児童相談所などでの講演活動、大学など...

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